大動脈瘤の専門医 日本で唯一の大動脈専門医療センター

体験談

手術を受けた患者さんの体験談20

13歳息子の手術、唯一受け入れてくれた川崎幸病院

13歳男児の母より 千葉県 

2015年 2月 急性大動脈解離
2015年 8月 下行大動脈置換手術

2月のある日突然、中学1年13才の息子が急性大動脈解離を発症、8月に川崎幸病院で手術を致しました。その経過をお話致します。
 息子は13才中学生、風邪も引かず病気とは全く無縁、小学生からサッカーチームに所属し、全くの健康優良児でした。それが、2015年の2月のある日の夜、何だか背中がおかしいとの事、私は2階の息子の部屋に行くと、背中が痛いと言います。寝返りした時に背中を捻ったんだろうか?そんな事を考えていると、2分も経たないうちに凄いうめき声を上げ、部屋中をゴロゴロと転げ回っていて、私は何が何だか分からず、でも酷い苦しみようなので、救急車を呼び近くのA病院に搬送しました。到着すると担当医は鎮痛剤を打ち レントゲンと血液検査をしましたが、異常は見当たらないとの事でした。しかし、様子は全く変わらず、酷いうめき声を上げていて、その病院はベッドの空きが無いとの事で、B大学病院へ搬送される事になりました。B大学病院では、私は控え室に案内され、外から先生方のバタバタと動き回る足音がしていました。何だかおかしい。何か有ったのか?と思っていると、若い医師が来て、「落ち着いて聞いて下さい、大動脈に解離の所見が出ました」と言われました。解離と言う言葉に、私は全身の血の気が引いてしまいました。それと言うのも、息子が3才の時に、私の兄が46才で同じ病気(大動脈解離)で亡くなっていたからでした。兄は、朝普通に仕事に行き 仕事の打合せ中に痛みを訴え、救急搬送された病院で急性大動脈解離でその日の昼過ぎに亡くなっていました。その為、急性の大動脈解離という病気が、大変な事だとよく解っていました。

 B大学病院では息子の手術が出来ないとの事で、手術が出来るC病院へ搬送となりましたが、このC病院にたどり着いた時にはもう朝方4時を過ぎていました。そしてC病院での説明では、「これから同じ急性解離の患者が運ばれて来ます。もしその患者が大人の場合、大人の手術を優先するので、お子さんの手術は後になります」との説明でした。子供は後回し?何故?と思う中、すぐに検査が始まり、検査の結果下行大動脈解離;スタンフォードB型と診断され、手術をせず降血圧剤を使用し安静療法をするとの説明でした。それから45日の長い入院生活をする事になりました。

 C病院の説明では、小児の発症はとても珍しく例が無いので手術は難しく リスクも大きいので手術はしたくないとの事でした。しかし、いつか何処かで手術が必要な事も説明され、ただお宅のお子さんのように小児の大動脈手術が出来る病院は、日本ではほとんどない、それくらい難しい手術だと思って下さいとの説明でした。C病院が、小児科の有る受け入れ可能な転院先を当たって下さったのですが、2週間経っても受け入れ先が見つからず、B大学病院に戻される事になりました。2015年3月31日にC病院を退院し、いざB大学病院へ行くと、どの科で受診したら良いのか?紹介状が有るにも関わらず、小児なので小児科か?病名から循環器科か?心臓血管外科か?などと、どの科の医師達も自分の科では無いだろうと、受診科が決まらず、1時間程待たされました。取り敢えず、循環器科に通されたものの、どうしてここに来たんだろうと言う空気が流れていて、次回からは小児科で経過を診て欲しいとの事でした。一体誰が息子を診てくれるのだろう?
いつ大動脈が破裂するかも知れず、安心して生活が出来る状態ではありません。とりあえず自宅退院はしたものの、B大学病院からの指示で、息子は学校へは行っても良いが、運動は一切禁止、重い物を持つ事も、体をひねる事もしないでくれとの事でした。


 13才の中学生が殆んど体を動かさない生活が始まりました。そんな流れの中で、息子と同じ小児の症例は無いか?手術の症例は無いのか?私は必死でインターネットを調べ、その中で山本先生の所属する川崎幸病院のサイトにたどり着きました。手術が難しいと断られた患者達が、山本先生を頼りに全国からやって来ると言う、大動脈専門のセンターのようだ、もしかしたら?、そんな期待を持ち早速主人が予約の電話を入れると、紹介状無しで受けて下さるとの事、救われる思いで受診をしました。2015年5月の土曜日、山本先生の外来受診となりました。少し緊張しながら診察を受けると、山本先生は、「お宅のお子さんの手術が出来るのは、この病院しか無いでしょう」と仰り、「小児だからと言って、手術が出来ない訳では無い、手術は体の大きさで考えましょう」とお話をされ、しばらく経過観察しましょうと言って下いました。やっと手術を含め、息子の病気を引き受けてくれる病院が有った、そんな思いでいっぱいでした。その後、8月に検査をする予定をしていたところ、6月末の朝 また背中が痛いとの訴えに、救急にて川崎幸病院大動脈センターで診察をしましたが、検査に大きな変化は無いとの事でした。しかし、その時に検査をして下さった、大動脈センターの藤川先生と大島先生から、やはり今回のように症状が出るのであれば、早く手術をした方が良いでしょうとのお話が有り、「今迄13才の小児の症例は実績は無いが、しかしこのままにしておく事は出来ない、なのでこれから僕達は色々調べます。もしも手術前に緊急で別の病院に運ばれる事が有れば、当院から医師がドクターカーで迎えに行き お宅のお子さんから連絡が有った場合は、直ぐに手術準備をして病院に到着後20分で手術を始めます」。そうお話して下さいました。手術と言う言葉から一歩も引く様子は無い、何と心強い事だろう。そんな事を自信を持って話せる医師が、心臓血管外科医の中に一体何れくらい居るだろう?普通ならリスクを考え そうは言えないものだろう、この病院の医師達の志の高さに深い感謝の思いと共に、山本先生が仰ったように、息子の手術はこの川崎幸病院大動脈センターでしか出来ないと確信し、心の底から救われた気がしました。そして、術前の不安も解りやすく丁寧に説明して下さった島村先生のお陰で、私達はよく理解し納得する事が出きました。中学生の息子には、大島先生が不安を与えないように優しく説明して下さり、大変な手術で有るけれど、本人も手術への覚悟をする事が出来ました。そしてこの病院は、どの先生が出て来られても、皆さん情報を共有していて、誰でも同じ説明が出来るところが凄いと感心させられました。

 手術当日の朝 山本先生が病室に来て下さり、「大竹君 今日は手術だね」と軽く声を掛けて下さいました。手術時間は8時間くらいでしょうか?との私の問いに「えっ、そんなに掛からないなー、4、5時間かな?」と軽くお話をされ、手術を前に重苦しい気分の私にフワッと安心感を与えてくれた気がしました。午前11時 息子が手術室に入ると、私達は不安な気持ちで控え室に座り、どの病院でも難しいと言われた手術なので簡単では無いだろうと思いながら祈る思いで待っていました。夕方4時半頃、突然山本先生が家族控室に入って来られ、「大竹さん、手術が終わりました。無事に終わりましたよ」と明るい表情で言って下さり、私はその場で全身の力が抜け、しばらく力が入りませんでした。その後、山本先生と一緒に手術をして下さった大島先生からは、「僕は血の一滴も出さないつもりで手術をしました」と言って頂き、この病院の手術に向かう医師達の姿勢に心から感謝致しました。良かった、本当に良かった。半年間運動も出来ず、辛い学校生活をして来た息子も、また大好きなサッカーが出来るかも知れない、本当にありがたい。山本先生に、大動脈センターにお願いして本当に良かった、他の病院では、こうは行かなかっただろう、この病院に来て本当に良かった、心からそう思いました。

 そして、次の日ACUへ行くと さすがに息子の顔は浮腫み、色々な計器に繋がれ、痛みで目も開けられない様子、夜痛み止のブロック注射をして頂いきました。手術2日目、また苦しんで居るのだろう、辛い思いでACUに入ると、ベッドから降り、椅子に座って歯磨きをしている。ブロック注射が効いているにしても、こんなに早く動けるのか?手術3日目、ACUを訪ねると一般病棟に移ったと言うこと、病室に行ってみると歩行器も使わずに一人でトイレに歩いて行ったとのことで、一体どーなっているのか?こんなに大きな手術をしたのに、そんなに早く回復するのだろうか?と不思議でした。以前見たこの病院の体験談に、この病院の術後は楽だと書いて有ったのですが、本当なんだと思いました。手術4日目から痰が絡み、傷口の痛みも有るので痰が上手く出せず、この痰にはなかなか苦戦していました。そして痰が落ち着いた頃には咳が出るようになり、この咳はしばらく続きました。でも、頻繁に病室に顔を出して下さった平井先生から手術中は自分の肺を潰していて、その肺が未だ完全に膨らんでいないが、徐々に膨らんで元に戻り、咳もそれに伴い治まる事ついて色々説明して頂いたので、理由がはっきり分かり、安心しました。

 リハビリは順調に進みました。以前入院したC病院では、500m歩くだけのリハビリで、自宅退院した後は、家では階段を上がって良いのか?悪いのか?何も解らず、自宅2階の部屋には上がらず、2ヶ月程1階のリビングで寝起きをし、自転車には乗らないようにしていました。しかし、この病院のリハビリは違いました。
息子の学校の教室が3階だと言うと、階段を3階分昇り降りし、自転車も20分もこぎ、実際の生活に合ったリハビリをして頂き、これで退院しても不安は無いと思いました。そして、術後15日で退院となりました。

 2月に発症し、半年以上の間、破裂と言う恐怖を感じならが生活して来ましたが、この病院に来て、また以前の暮らしに戻る事が出来ました。山本先生はじめ、関わって下さった先生方には、感謝仕切れない思いです。本当にありがとうございました。そして最後に、兄は大動脈解離の発症時は意識も有り、生きて病院に運ばれたのにも関わらず、病院に到着後に「この病院には年間2人くらいしか解離の患者は運ばれて来ない、手術をしても助かる人は殆んどいないので手術は行わない」と説明されている最中、46才で亡くなりました。
今思えば、その病院では手術をする気が無かったのではないか?いや出来なかったのではないか?多分そのような病院は、多いに違いない、兄もこの大動脈センターに運ばれていたら、きっと助かったに違いない。
そう思うと、無念でなりません。何事でもそうだと思うのですが、出来ると思う人にしか物事は成し得ない。
人の生死に関わる手術を、成功すると信じ切る事はとても難しい事だと思うし、確立した技術や実績が無ければ、信じる事は無理だと思います。しかし、山本先生は、成功を信じ切って手術をして下さっている、そして、ご自身のような若い医師を育てようとして下さっています。是非、このような医師が沢山育ち、兄のように無念にも亡くなる患者がいなくなればと願っています。今回息子に関わって下さった、山本先生をはじめ、大島先生、藤川先生、島村先生、平井先生、本当にありがとうございました。24時間の救急対応という激務の中で、どの先生も正面から患者と向き合える、すばらしい先生たちでした。そして、明るく接して下さった看護師さんやリハビリの先生、コーディネーターの皆さん、本当にお世話になりました。手術から2ヶ月、息子は今 大好きなサッカー部に戻り、仲間と楽しく練習をしています。

手術を受けた患者さんの体験談19

87歳での大動脈瘤手術

87歳・女性 神奈川県  2015年寄稿

平成26年12月半ば突然、吐き気におそわれ救急車で病院に運ばれ、結果は思いもかけないノロウィルスでした。いつも循環器でお世話になっている病院でしたが、血圧の薬を頂きに10年余通っていたのにかかわらずCTなんて検査も受けた事もなかったのです。でも、なぜかこの時にたまたまCT検査をすることになりました。
 その結果、今度の大動脈瘤が発覚したのです。今まで一度も聞いたことのない病名、先生の説明を聞いて驚き頭の中が真っ白になり、このままだとあと1年位の寿命と聞かされ、一言も言葉もでませんでした。担当の先生からは、87歳という年齢ですが本人の決断があれば手術可能ですよと言われました。家族と相談して特に孫に強く言われ、私には内緒で主治医の先生に紹介状を頂きに行ってくれました。その主治医から紹介された病院が川崎大動脈センターでした。  4月29日に二泊三日の検査入院、5月20日再入院、5月22日に手術と決まり、先生を信じて信じてと、心に決めて、6時間の手術に堪えました。術後はたくさんの先生方の親切な対応と、集中治療室にいた時も看護師さんの行き届いた心遣いには本当に感謝いたしました。そして毎日、大勢のスタッフの方が、その日の結果の報告を患者さんの前でお話をされ、専門的な事とはわかりませんが、私にしてみれば、すごく安心感がありました。隣のベットの奥様とも親しくなり、毎日10時になるとリハビリに行き、3時には又ラジオ体操に誘い合って、リハビリも大変楽しくできました。
 たくさんの立派な先生に恵まれ退院してから3ヶ月たちましたが、10月2日に初めての診察で先生にお会いできるのを楽しみに、そしてノロウィルスの(苦しかったけれど)おかげで、この大変な病気に打ち勝って、この先、何年命拾いしたのでしょうか?本当に感謝です。有難うございました。目が良くないので乱筆になりました。

手術を受けた患者さんの体験談18

大動脈解離と胸部大動脈瘤手術の体験

74歳・女性 神奈川県  2015年寄稿

2015年4月 大動脈解離

2015年7月 弓部大動脈瘤手術

私の母が手術を受けました。 2015年4月のある夜、いつもの様に床につき、テレビを見ながら体の向きを変えた瞬間、今まで経験した事のない強い痛みがおこり、救急車を呼んで川崎市立病院へ搬送されました。検査をうけると大動脈解離の診断。幸運にも大動脈解離の専門である川崎幸病院がそばにあり、お世話になることとなりました。集中治療室で治療をし容態が安定するも2度目の再解離を起こしてまいました。この時は3か月ほど待って状態が安定したのちに、胸部の解離した大動脈にたいする手術が必要との説明を受けました。3か月後、検査入院をし、大動脈瘤の手術を受ける事になりました。手術当日の朝、緊急手術があったようで予定時間が6時間近く遅くなり、母の手術終わったのは深夜でした。先生たちは非常に大変だったにもかかわらず、丁寧な説明があり無事に終わりましたの一言で、やっと安心することができました。声が出しにくく食べ物が飲み込みにくいという術後ではありますが、しばらくすれば改善するとの説明がありました。入院している間は担当してくれた先生や看護師さん、スタッフのみなさんが様子を気にかけてくれて、不安事項があれば速やかに解消していただいているそうなので、安心してお任せする事が出来ました。

手術を受けた患者さんの体験談17

ドクターカーで搬送されて

36歳・男性 神奈川県  2015年寄稿

2014年8月 大動脈解離

2015年4月 弓部大動脈解離手術

2015年7月 下行大動脈解離手術

平成26年8月の盆の朝、着替えの際、突然、胸に激痛があり、救急車で近くの病院へ搬送されました。すぐに検査をして大動脈解離と診断されましたが、この病院では手術できず、川崎幸病院へドクターカーで転院しました。川崎幸病院で詳しく検査しB型大動脈解離との事だったので、降血圧治療にて経過観察し、約2週間で退院となりました。しかし、それまでは問題なかった大動脈の弓部と下行の径が、平成27年3月定期検診にて50ミリ以上となっていしまったため、両方の部位を手術することとなりました。まず、平成27年4月、川崎幸病院・川崎大動脈センターで弓部大動脈人工血管置換の手術を実施しました。手術後は、先生にもかなり順調だといわれ、約2週間で退院しました。体調が回復した平成27年7月末、2回目の下行大動脈人工血管置換の手術を実施しました。弓部の手術の時より痛みが強く大変だったのですが、このたび無事退院しました。今後は、自己管理を徹底し再発防止したいと思います。

手術を受けた患者さんの体験談16

7.5㎝の動脈瘤手術

59歳女性・神奈川県 2015年寄稿

2015年

平成27年6月3日、何の前ぶれもなく7.5㎝の動脈瘤が見つかり、次の日6月4日に紹介された川崎幸病院を受診したら、その場で入院となりました。何が起きているのかわからず戸惑うばかりでした。

手術までの検査の結果が次々にわかって、現実が少しずつ恐怖と共に理解できて、破裂する前に見つかって良かったんですよ、ラッキーでしたと先生が言って下さった言葉がジワジワと私の中に広がりました。

今回の手術は傷も大きく術後大変でしたが各先生はじめスタッフの皆様のおかげで1か月で退院する事ができました。今になって本当にラッキーだったのだと思っています。川崎幸病院の皆様に感謝いたします。

手術を受けた患者さんの体験談15

不安が残る大学病院の対応を解消

48歳男性・兵庫県 2015年寄稿

2015年

平成26年5月に会社の健康診断で胸部レントゲンに影が有ると言われA総合病院の呼吸器内科を受診しました。CT撮影により肺ではなく50ミリ大の大動脈瘤であると判明し、翌日にA総合病院・心臓血管外科を受診する事になりました。

心臓血管外科で、この病気は手術でしか治らない、手術には人工血管置換とステントグラフトがあると説明されましたが、手術適応は60ミリを超えてからだといわれ経過観察することになり、血圧の調整、重量物を持たない、無酸素運動の禁止を言われ半年間待つことになりました。

何も出来ずに半年が過ぎ再受診しましたが動脈瘤の大きさに変化はなく、次は一年後と言われ、また不安な状態で一年間過ごさなければならないのかと思い、手術できないかと尋ねましたが、手術の方がリスクが高いと言われました。

本当にこのままでよいのかと思い、B大学病院に行きましたが紹介状が必要だと言われ、診てもらうことができませんでした。

そんな時、会社の同僚からネットに大動脈手術で実績があり紹介状が無くても診てもらえる川崎大動脈センターが載っている事を聞き電話予約を取る事が出来、診察して貰えました。

診察結果は、この瘤の型は見つけしだい手術を行った方が良いとの事で手術の予約をとりました。

手術に対しての不安はもちろんありましたが、それよりも手術を行ってもらえる安心感の方が強かったように思います。

4月に手術が実施され術後の痛みなどは覚悟していましたが、先生、看護師の方々のケアーのおかげで予定通り退院することができました。

現在も順調に回復し術後の3ヶ月検診を待っています。

最後に、瘤の破裂の不安から救って頂いた先生方と入院中にお世話になった看護師、コーディネーター、リハビリ担当の方々に大変感謝しています。

手術を受けた患者さんの体験談14

急性大動脈解離7年間の末に

53歳男性・東京都 2015年寄稿

2015年

7年前に急性大動脈解離を突然発症し、緊急搬送され、搬送先にて上行大動脈人工血管置換手術を行い、一命を取り留めました。その後、今年の1月まで東京都下M市の市民病院にて、3か月に一度の頻度で受診し、血圧コントロールの為の処方と血液検査、レントゲン撮影を行い、2年に一度CT検査を行ってきました。

ただ自分自身としては、「7年も経ったのだから、そろそろ再手術かな?」という思いもあり、自分の判断で川崎幸病院大動脈センターのセカンドオピニオンを希望しました。セカンドオピニオンのハードルも非常に低く、紹介状も医療情報も必要なく、患者の立場としては大変有難いシステムでした。診療の結果、案の定、弓部と下行が既に大動脈瘤になっており、手術が必要ということでした。もし、あのまま市民病院に通院していたらと思うとゾッとします。

その場で検査入院の日程も決め、とてもスピーディな印象を受けました。私の場合、弓部と下行のため、2回手術を行う事も検査入院で判断して頂きました。しっかりと、事前検査を行うことで、精神的にも安心して手術を受けられました。

実際の手術とその後の入院生活ですが、一言で言えば、「快適に過ごせた」と思います。手術自体は先生方に絶対の信頼感を持っていましたので、お任せするしかありません。術前の麻酔科医の説明も安心材料の一つでした。

術後の集中治療室での対応は、きめ細かく症状や状態を見て頂き、「致れり尽せり」でした。でも、決して我がままを聞いてくれる訳ではなく、一人一人の患者さんに適したケアを実践して下さいました。

一般病棟に移ってからも、個々の看護師さんたちがきちんと個人の状況を把握して対応して下さいました。また皆様親切で、礼儀正しく、好印象を持てました。

患者さん同士の交流も「同じ病」ということで、気軽に体験談や病状を語り合ったりし、ある程度のストレス解消になりました。

またリハビリプログラムも一人一人の退院後の実情に合わせて考えられており、住宅事情や生活実態に沿ったものでした。理学療法士の皆様のとても熱心なご指導と情熱に感謝しております。どうしても「手術を得意とする病院」「手術に特化した病院」という印象が強いのですが、そんなことはなく、全体的にバランスよく大動脈疾患のことを考えている専門病院だと思います。今回はお世話になりました。ありがとうございます。

手術を受けた患者さんの体験談13

大学病院から川崎幸病院へ

67歳男性・東京都 2015年寄稿

2015年

私には職業病のじん肺があり、平成25年毎年6月に恒例のじん肺検診を労災病院で受けました。レントゲン撮影後、大動脈解離だといわれました。自分で心臓に関する本を買ってきて読んだ所、思い当たる事がありました。前年の11月の夜11時過ぎにアイスコーヒーを飲んだ時体に入っていくコーヒーの入り方が異常でした。すぐに背中全体がズキズキと痛くなり我慢できなくなり、すぐに総合病院に行き、レントゲン、CTをとりましたがその病院では異常がないと言われ、痛み止めを処方してもらいました。2、3日後に労災病院で紹介状を書いてもらい、大学病院に行きました。そこでは血圧の薬をもらい、2、3ヶ月に1回CTをとり様子を見る事になりました。大動脈解離に関する病院のポスターには、大動脈解離は突然になり突然破裂すると載っていました。自分ではあと半年、1年後には死ぬと思い、精神的に落ち込みました。くしゃみ、せきをすると破裂するのではないかと怖くなりました。大学病院では約一年半同じ事のくり返しでしたので、その後の通院については、お詫びの上キャンセルさせていただきました。

そんな時、兄がネット上で川崎幸病院のことを知り、資料を取り寄せ二人で病院に伺いました。大動脈センター長の山本先生にお会いし手術ができる事を聞き、手術中のリスク等をいろいろお聞きしました。自分の中では、じん肺があるので手術は絶対にしないと決心していました。そんな時、姉や義兄に説得され、元気なうちにやればリスクも少なくすむし兄弟にも励まされ覚悟を決め手術を受ける事にしました。

約6時間の大手術でしたが、無事に成功しました。翌日集中治療室で自分の手足が動くので自然に涙が出てきました。先生ありがとうございました。看護師、スタッフの皆さん本当にありがとうございました。又病院では声が大きく明るい看護師さんがいて、彼女からは、すごく元気をもらいました。リハビリの先生もわかりやすく指導していただきありがとうございました。これで甥の成長を見、又二度目のオリンピック、パラリンピックを見る事が出来ます。又、好きな海に潜る事が出来る様にリハビリを続けたいと思います。ほんとうにありがとうございました。がんばります。

手術を受けた患者さんの体験談12

腹部大動脈瘤、人工血管置換手術体験談について

70歳男性・東京都 2015年寄稿

2015年 人工血管置換手術

(1)偶然の大動脈瘤の発見

2014年12月末、カンボジア国の総合病院「Sun International Clinic」で定期健康診断を受診した。K医師(日本人)による腹部エコー検査で、偶然に、47mmに膨らんだ腹部大動脈瘤が見つかり、日本で精密検査を受けるようアドバイスされた。

自覚症状もなく、腹部大動脈瘤の診断は、寝耳に水であった。ただ、血圧が100―160mmHgで高めであったのが、今思えば、大動脈瘤の兆候だったかもしれない。

(2)インターネットで川崎幸病院を検索

「大動脈瘤」をインターネットで検索したところ川崎幸病院のURLをヒットした。大動脈瘤手術の名医としてテレビでも放映され、群を抜く手術実績の山本先生の紹介記事を拝読したときは、「天は我を見捨てず」の思いで、直ぐさま、カンボジア国から検査予約を申し込んだ。

(3)手術の迷い

2015年2月14日、川崎幸クリニックでレントゲン、CT、MRI,血液検査等各種の検査後、山本先生から手術方法の概要と手術予定日を説明されたが、手術の恐怖でパニック状態であった。正直、カテーテル挿入による人工血管留置方法(ステントグラフト法)の選択は無いものかと迷ったが、山本先生の強い手術方針(開腹手術)の決定に迷いが吹っ切れた。

(4)島村先生への信頼

2015年3月19日、島村 淳一先生から、手術に関する詳細説明を受けた。72頁にもわたる「大動脈手術に関する説明書」を基に、疑問点や不安に思う内容を、論理的且つ、懇切丁寧に分かりやすく説明して頂き、全てをお願いする決心が付いた。

また、大腸癌と冠動脈狭窄の疑いから大腸内視鏡検査と、心臓冠動脈を検査して頂いた。幸いにも大事には至らないとのことであったが、疑わしいと思われる疾病の検査をして頂き、自分の健康状態が確認できた事は、大きな安心感となった。

(5)手術は夢の中

2015年3月21日、手術室に入ってから二言、三言冗談を言っている内に、気持ち良く眠りに落ち、手術中は全く不明。「手術は成功ですよ」と、島村先生の笑顔を夢うつつで見たときは本当に嬉しかった。また、患者に苦痛や副作用を与えない高度の麻酔技術に感銘した。。

(6)ICUの素敵な看護師さん達に感謝

集中治療室(ACU)で麻酔から目が覚め、手術の成功を実感したのも束の間、痰が絡むのにはまいった。傷の痛さで腹に力が入らないため、自力で痰を切ることができず、バキュームで痰を吸引してもらうようをお願いした。うまく吸引は出来なかったが、その刺激のせいか、直後に自力で痰を切ることができた時は、呼吸困難から生き返った思いであった。看護師さんには、手術後のCTやレントゲン検査のため何度も車イスで検査室に運んで頂いたことや経過の対応等、手厚い献身的な看護には、心から感謝している。

(7)一般病棟での経過

手術の翌々日、一般病棟に移動した。手術後の4日間は、痰が切れなくてヒイヒイ言っていたが、5日目からは歩行訓練のリハビリにも支障が無いほど回復した。

「手術は成功、問題無しです」と、島村先生の回診で太鼓判をもらった時は、本当に素晴らしい先生に手術をして頂いたと、思わず手を合わせた。

昼夜勤の交代時に、医師、看護師さん全員参加による、緻密な引継ぎや対応策の打合せにより、患者に対する徹底したケアーに心を打たれた。また、看護師さんにおしめ交換や、お湯で体を拭いてもらった時の感謝の気持ちは、言葉に表わせられない。

最新医療機器の設備もさることながら、清潔でゆったりとしたホテルのような病室で、快適な入院生活を過ごすことができたことは良き思い出となった。

(8)医学理念

アメリカ留学で得た技術、経験と医学理念を基に、次世代の若い医師の育成、シンプルな手術方法の開発改善による手術時間の短縮及び、成功率の高い手術をモットーに、患者を断らない山本先生の理念に感銘した。

(9)最後に

今回の手術は、いろいろな幸運が重なり、命拾いした。手術後は、計画通り10日で退院することができ、2ヶ月が経った今は、ゴルフができるまで回復した。このことは、高度な技術と経験豊かな先生に手術をして頂いたお陰だと感謝しております。これを教訓に適度の運動、食生活の改善とストレスをためない日々を過ごし、ピンピンコロリの人生になることを願っております。

手術を受けた患者さんの体験談11

川崎幸病院への感謝―大動脈解離からの帰還―

70歳医師・東京都 2015年寄稿

2015年 人工血管置換手術

「黒部の衆」1という言葉が突然また浮かび、流れて仕舞いそうになったので、あわててこの言葉を心に留めた。上行大動脈の人工血管置換術を受けて何日目かの早朝です。濃紺の術衣から、半袖の腕をむき出しにして、若い先生たちが患者さんの乗ったストレッチャーを押しながら大動脈センターの大部屋に入ってきました。どうやら年中無休で手術を終えてきたようです。黒に見える術衣が刺激語となって連想を引き起こしたのか、痺れるような凍えた水に足が浸かった夢の記憶が引き金か、今となっては定かではありません。

小生この3月に古希をむかえました。昔、やはり70歳の父を脳梗塞再発で見送ったのと考え合わせて感無量です。じつは昨年暮の12月13日土曜日昼前11時半に勤務地の院長室で、椅子の上で伸びをしたのを機に発症し、一夜開けて大森日赤を受診し日曜日14日に循環器内科の降旗先生によって急性大動脈解離と診断いただきに即ICUへ入院、同じ週の19日金曜日の午後4時川崎幸病院転院した経緯をあとで70歳の誕生の日に、家内から細々と聞きました。

CTとMRIの後、「大動脈解離です。スタンフォードのA型2ですね。」と降旗先生に丁寧に言われ、「はい。」と返事しましたが、何型まであったかな?あとで調べなければいけないなと呑気3に思ったのが、40数年精神科を続けてきた習性でしょうか?実兄が同じ年の1月に近郊の総合病院で胸部大動脈瘤のステントグラフト術を受けたことを告げると、「じゃ家族性4ですね。」と言われました。リスクはそれだけです。

即ICU入院となり、愛用のiPhoneも取り上げられ武装解除された心地して、オムツにバルーン挿入と心細くも床上絶対安静の身となりました。背部痛について聞かれ、そう言えば昨夜の3割方ですと返事をしました。しかし、自宅で過ごしたひと夜では多少は寝苦しかったが、痛みで眠れないほどではありませんでした。

この直後から、家内とピッツバーグ大の研究所にいる長女、赤穂市民病院にいる三男、福岡市の産業医大に勤める長男との間でメール会議5が始まったようです。以下はじかに大森日赤の降旗主治医と電話で話した三男によります。「土曜日の発症で、日曜日受診時にスタンフォードA型の動脈解離、上行大動脈起始部からぐるりと下行大動脈を腎動脈ぎりぎりまで解離して器質化。Dダイマーは比較的低値。いま解離腔が血栓化して進行止まっているようなので、ICUで内服降圧剤管理、血圧120台で安定。入院2日目血清クレアチニンが0.6から2に上昇、脱水下での造影剤腎症と考え、補液2千ml/日を維持するとともにMRIで再評価し、腎動脈に解離が及んでいないことを確認。」

「今後1週間程度ICU管理してから、一般病棟で解離用のリハビリをして手術に備え、年末6に血管置換術を行うか検討中。」と主治医の今後の方針を伝えたあとで、三男は「かなり重症でした。よく家で急変しなかったと思います・・・。」とつけ加えて述べている。

あとで伺うと守屋裕文先生7は家内から連絡を受けたあと、すぐに中学同期の親友である循環器の赤塚 宣治先生8にすぐに電話で相談したところ、言下に川崎幸病院・川崎大動脈センター9の名を挙げられ、大動脈関連で手術を受けるのは一番良いと言われたそうです。また日本医大の大久保善朗教授が、先輩である川崎幸病院の笹栗志朗先生(川崎幸病院・院長)に直接連絡10を付けて頂き、三男が直接電話を頂いたのが19日金曜日13時半すぎだったようです。

笹栗先生によれば、「再解離が最も怖く危険であり、直ぐに手術対応できないところでは危険である。」「本日中に川崎幸病院に転院していただきます。」「笹栗より大森日赤に電話させてもらいます。」と大森日赤の循環器内科部長と直接交渉してくださいました。15時半に降旗先生から直接三男に連絡あり、「トントン拍子で部長と話が決まったので、来週でなく本日16時に転院搬送と決定」と丁寧な電話をいただきました。13時半の電話では、主治医の降旗先生は「当院の血管外科の先生11の許可がいるので、ただ本日午後は手術中で相談できないため、転院手続きは来週半ばになってからにさせてもらいます。」と言われてしまい、三男も途方に暮れていたようです。その直後に笹栗先生と電話で直接話せて、全てが氷解したようです。

発症いらい、医者と会うたびに心臓破裂から、脳梗塞、対麻痺、人工透析と一本一本の血管ごとの病気の危険性を縷々と聞かされてばかりですっかり気落ちしていた家内も、先生の笑顔と“大丈夫ですよ。”の一言で“救われた。”と申しております。小生も手術後、7学会合同の2011年改訂版ガイドラインを勉強させて頂き、また年々に積み重なっていく川崎幸病院・川崎大動脈センターの実績をホームページで拝見し、先生の“大丈夫ですよ。”の一言が如何に深く大きい実績に根ざしたものかと心至りました。

命を救って頂きまして、まことにありがとうございました。
おわりに幸運の幾つかを記してみます。

  1. 大動脈起始部から腎臓脈まで、大動脈のどの血管分岐をも巻き込まなかったこと。
  2. 本人の呑気さにも拘らず、解離腔内がすぐに血栓化し器質化したこと。
  3. 初診時、循環器内科のベテランがすぐに画像を用いて正確な診断を下してくれたこと。
  4. 川崎幸病院の的確な判断と、実行でスムーズな転院ができたこと。
  5. なにより人工心肺を用いて超低体温下12での人工血管置換術13をスムーズにやって頂けたこと。麻酔科の先生にも御礼もうしあげます。
  6. 友人、知人、そして家内と子供たちの骨折りで、すべてが順調に経緯したこと。
  1. 「黒部の衆」服部文祥が21世紀豪雪という章のなかで、雪黒部を舞台に登山を行うものの総称としてそう名前をつけても良いと述べている。それくらい冬の黒部は雰囲気、技術、恐怖、露出感、そして哲学まで独自のものとして一つの世界を作り出している。この記録では、赤牛岳から厳冬の黒部峡谷の上ノ廊下で冷たい本流を渡渉し、対岸の金作谷から真っ直ぐに雪崩の危険の中、北薬師岳東稜に登るコースが描かれている。 [服部文祥;サバイバル登山、177頁、みすず書房、東京、2006]。
  2. 大動脈瘤・大動脈解離診断ガイドライン(2011改定版)7学会合同研究班編 7頁表3によれば、上行大動脈に解離のあるものがA型、無いものがB型でした。
  3. 呑気 やはり同ガイドライン15頁では、村井達哉による東京都監察医務院の1320剖検例の統計学的研究を引用して、病院到着前死亡を合わせると、発症24時間以内に93%死亡したことになる。東京23区の監察医務院の実績から考えると異状死のほとんどを扱ったものと考えられ信頼性は高く、小生の場合、発症の午前11時半から、ひと夜を家で寝て過ごして翌日午前9時半受診までの22時間の期間については、かなりの呑気と言って良い。
  4. 家族性 兄は9年前から腹部大動脈瘤が見出され東大でフォロウされていたが、その後胸部にも見つかり平成26年1月に近郊の病院でステント手術を受けた。さて胸部大動脈瘤では、4つの原因遺伝子が見つかっているが、どうも胸部と腹部では発生機序が違うとされている。
  5. メール会議 次男は仕事ではるかミクロネシア太平洋上にあり、字数の多い通信は不可の海域にいた。12月22日の手術開始時間が遅れたので、なんとか間に合い術前に挨拶を交わすことができた。
  6. ガイドライン2011改定版 27頁では、なんらかの理由で手術できなかった例で内科治療によって経過をみた結果、2週間生存率が43%だったという報告を引用している。また急性大動脈解離の国際多施設協同登録試験(IRAD)では発症から7日間の時点で、死亡率を比べると内科治療で40%外科治療では13%とされ、1ヶ月時点では50%と20%という。
  7. 守屋裕文先生ご夫妻 現成増厚生病院副院長 長年お世話になっていて、いろいろと相談にのって戴いている。
  8. 赤塚宣治先生 東京大学循環器内科から国際医療センター循環器部長。小泉首相の主治医としても有名な先生。現在、東都クリニックで種々の相談に乗っていらっしゃる。
  9. 社会医療法人石心会川崎幸病院ホームページはhttp://saiwaihp.jp/ です。
    川崎幸病院は同じ川崎市幸区にある正慶会栗田病院勤務時代に主にアルコール症患者さんのことで、よくお世話になり、何度かお伺いし当時の院長である現理事長 石井 暎禧先生ともお会いしたことがある。石井院長の弟である石井敏勤先生は昭和41年本学卒で、小生は山岳部新人のころからの、お世話になっている。 当時と違って、川崎幸病院は社会医療法人として発展し特化されていて目を見張るばかりである。法人代表の理事長 石井 暎禧先生は中医協委員など歴任され、いまや「国手」の名に相応しい。
  10. 東京医科歯科大学ラグビー部の先輩、後輩の間柄。笹栗先生は福岡県立修猷館高校ラグビー部出身で当時から有名なラガーであったと同期(18期)の本学ラグビー部OB伊藤眞一先生は言う。
  11. 大森日赤(通称) 平成26年4月に新設され小生の以前の勤務先である東京都保健医療公社荏原病院の循環器内科からも、たくさんの患者さんを送っている。
  12. 超低体温下 脚が冷たく千切れるような夢を見たような記憶がうっすら残っています。
  13. 手術 平成26年12月22日に川崎幸病院川崎大動脈センターで手術を受けました。午後2時半から始まり、同夜9時にACUに戻りました。先生方まことに有難うございました。お陰さまで平成27年1月6日に後遺症なく五体満足で退院いたしました。

手術を受けた患者さんの体験談10

不安や悩みは一度に消えました

52歳女性・秋田県 2015年寄稿

2015年上行置換術

私は、大動脈瘤の手術をすると歩けなくなるかもしれないと他の病院で言われ、ものすごく不安になりました。そこで、インターネットでなんとかならないかと調べた時、この川崎大動脈センターを見つけることができました。すぐにホームページの案内に従い、大動脈センターコーディネーターに電話で連絡し、外来の予約をとり、受診しました。

はじめての大動脈センターの外来では、診察して頂いた先生のお話を伺っているうちに、私が抱えていた不安や悩みは一度に消え、安心して手術を受けることができると感じました。実際に手術の際も安心して手術を受けることができました。術後のリハビリが終わり、退院した今、大動脈瘤という病気から解放された上に、手術前と変わらず、同じように歩くことができています。本当に先生方とこの病院に感謝しております。ありがとうございました。

手術を受けた患者さんの体験談09

手術手記

75歳男性・静岡県 2004年寄稿

1996年:大動脈解離
1998年:弓部大動脈瘤手術
2002年:下行大動脈瘤手術
私は約45年間、殆ど休みなく働き続けタバコもヘビースモーカーだったのですが、今までに病気らしい病気もせず、健康面で過信し油断があったと思います。
平成8年12月の祭日の朝、自動車を運転走行中、突然、胸部背部を激痛に襲われキリキリと締め付けられ全身の力が抜け車を止めるのが精一杯。
通りかかった中学生に助けられ、目の前の病院に運ばれましたが、すでに気を失った状態でした。
しかし、この病院では処置出来ず直ちに順天堂伊豆長岡病院に転院することになりました。
病状は、大動脈解離であり、上行大動脈の内膜2枚が裂け血管の直径が7.5cmとなっている状態でした。

その当時はこの手術をできる外科医がおらず、内科での集中治療が行われました。
その後、手術を受けなければ常時爆弾を抱えている状態で命の保証はないとの説明を聞きました。
運よく大動脈外科医としてアメリカで多くの経験を積んで帰国された山本先生の執刀で人工血管置換手術をすることを強くすすめられました。

当初、手術が怖くて尻込みしていましたが、先生の熱心、懇切な説明を聞き常に死の心配をしているよりも、一時の苦痛の方がと決心がつき、平成12年11月に実施。
平成14年10月今度は下行大動脈の人工血管置換術を受けました。
2回とも山本先生の執刀でしたので安心して手術を受けることが出来ました。

新聞等によりますと、この病気で人工血管置換術が必要とするのは全国で年間約2000件発症することを知りました。
私は3年間で上行・下行の2回の大手術を経験し、2回とも合併症もなく治療計画のとおりの期間で退院、経過は順調で現在は年1回の受診で済んでいます。
とは言え大手術なので或る程度のリスクと術後の痛みは覚悟しなくてはならないと思います。

この様な手術は経験豊富な先生に受診するとともに全幅の信頼をし、指導を受け、これに絶対に従う、不安事項があればすみやかに解消、食生活・適度な運動・禁煙・血圧・体重等に気配りし、自己管理を徹底するのが肝心であると思います。

手術を受けた患者さんの体験談08

高齢のためステント治療を断られた父の選択

患者家族・長野県 2004年寄稿

2004年:弓部大動脈全置換手術
私の父の病であります『胸部大動脈瘤疾患』についてお話します。
手術は今年の5月、川崎幸病院にて、約七時間の手術が無事成功致しました。
現在通常の日常生活に戻れるような状態になっています。
今回の手術にこぎつけるまでに、又手術から現在に至るまで、本人はもとより手術にあたった医師、看護士、栄養士、リハビリの皆々様、それに家族の協力があってこそ、現在の父が生存しているということをつくづく感じます。

父は現在84才。
終戦を南方の島トラック諸島のモートロック島で迎え、復員して企業を起こし、小企業ながら二つの事業を手がけています。
耳は遠くなりましたが、これまで仕事をつづけていました。
年齢84歳と言えば超高齢者になります。
父は76才の時『腹部大動脈瘤破裂』で生死をさまよいましたが、執刀医の先生のおかげで生還できました。
本人が今回の『胸部動脈瘤』手術を切望するにつき、前回破裂したからこそ、この手術を決意したといっていました。

この破裂した時のエピソードを話したいと思います。
『腹部動脈瘤』が破裂したのは、地元の脳外科病院を退院した日でした。
一週間程前、意識が一時的に不覚になり、脳梗塞ではないかと心配になってそのまま入院させてもらいました。
その入院中も腰から腹にかけて痛いと医師に訴えていました。
この脳外科病院の入院の前にも地元では大きな市立病院の内科医に『そこ』の痛を訴えて精密検査をしてもらいました。
でも、異常がないと言われました。
動脈瘤は一般的に痛みがないと言われますが、父は時々腰から腹にかけての痛を訴えていました。
話は破裂した日に戻ります。
昼頃退院しましたが、そこの痛みは収まりません。
父は接骨院に行きました。
でも接骨院では、「接骨医のやる処置ではない。」と病院に行くことを勧めました。
内科では異常がないと言っているし、もう行き場がなかったわけです。
父はその日ちょっとしたことでも神経質なくらい怒りっぽくなっていました。
そして、その夜、食事中に破裂しました。
ショック状態でした。
救急車で今日まで入院していた脳外科の病院に搬送してもらいました。
当直していた医師の好判断で市立病院に連絡を取り、転送してもらったわけです。
運よく、破裂したらまず助かる見込みのない大動脈瘤手術から生還できました。

その後、今から三年前の春の検診で、こんどは『胸部大動脈瘤』が見つかりました。
担当医の先生に「この手術は腹部動脈瘤のようなわけにはいかない。手術は出来ない。」と言われました。
父は腹部動脈瘤の手術を受けてから、全国紙の医療最前線という特集記事を読んでいて、その中で動脈瘤を取り上げた記事を折にふれて見せてくれました。
「動脈瘤手術でも手術創が小さく、数日で退院できるんだ。」と。
それは『ステント』を使った手術方法です。
わたしもそんな簡便な手術方法で出来ればと期待しました。
父は破裂した緊急手術と同じ人工血管置換手術を避けたい、二度と同じ苦しみを味わいたくないと思っていたわけです。
父はそのステント治療を主治医に相談したところ、快く紹介状を書いて下さいました。
翌日レントゲン写真をタスキ掛けにして、母を伴ってステント治療で最も有名な東京の医科大学へ行きました。
特集記事に載っていた医大のステント治療の権威の先生に診察してもらい後日入院することになりました。
医大には2週間程検査入院をしました。
病院側から説明があるとのことで、私は母といっしょに同行しました。
父がロビー迄迎えに来てくれていました。
とても元気で、2週間の検査は退屈だったと言っていました。
3時に先生方の説明があるということで、医大の一室に案内されました。
2人の若い先生が教壇の椅子に両側にすわり、もう1人の中年の先生が教壇に立って、胸部大動脈瘤疾患の部位の状態を描き、説明してくれました。
「あなたの場合は、動脈瘤が『弓部』の部位にできており、又、脳の動脈瘤にステントを入れることは、脳の動脈を塞ぐことになり治療できない。」ということでした。
つまり、診察の結果は、ステント治療は出来ないということでした。
ステント治療を行なうに必要な条件を満たしていないという理由でした。
その瞬間、私は全身の血が引く思いがしました。
両親も共にうなだれました。
その先生は「弓部の部位をそっくり人工血管に置換する方法もある。」といってくれました。
私は、(父が胸部大動脈瘤のために2週間も検査入院していたわけだから)「当病院でやってもらえないでしょうか」との問いに、その先生は「置換手術は当病院でなくても、小沢さんの住でいる近くの病院でやってもらった方が良い。」との返事でした。
「長野県でどこか出来る病院がありますか。」の問いに『沈黙』。
矢継早に、「遠くてもいいんです。この医大でやっていただけませんか」との問いに「小澤さんの場合は高齢ですし。」「高齢ではダメなんですか。」との強い口調に対して、「まあ、そう言うことで。」との返事でした。
もうこれ以上質問を発することはできませんでした。
父の最期の望みは絶たれました。
3人共ガックリと肩を落としました。
父が上京して入院する際タスキ掛けにして持ってきたレントゲンと、医大でのレントゲンを借りて足早に立ち去りました。
バスで帰郷する際、夕食をどこかおいしいところでもと思っていましたが、そんな気にもなれず、タクシーで新宿に着くや高速バスに飛び乗りました。
帰郷バスの中では本人に掛ける言葉がありませんでした。

翌日から父は、自分の葬儀の心配をし始めました。
以前からこういう動脈瘤の病気でしたから、もしやということで手配はしておりましたが、今回はより具体的です。
私もその日から『なんとかしなくては』と仕事が一段落すると常にそのことが頭から離れません。
私は仕事の関係上、人様にいろいろな話を聞けますが、何分そんなにある病気ででもありませんし……。
その日の夜自宅のパソコンで、インターネット検索を始めました。
接続会社の検索で『胸部大動脈瘤』で検索しました。
かなり多くのホームページのURLがでてきました。
その中で順天堂大学附属病院のホームページが目に止まりました。
『この病院にこのわざあり』人工血管を持っている山本講師の写真。
進んでクリックしながら読んでいくと『昨年でいうと胸部大動脈瘤に限ると57例の好成績を挙げている。しかも術中死亡はゼロ』。
そのスクリーンの文面を食入るようにみました。
また何度も読み返しました。
『コレだ。ありがたい。』その日一言。
その時希望が確実に自分の中に持てました。
翌日父に印刷して見せました。
父は「この病院に行きたい。すぐ手続きをとってほしい。」と。
早速、順天堂医大学附属病院に問い合わせたところ「山本晋先生は今この病院にいない。」とのこと。
「どこの病院ですか、是非教えていただきたい。」と数分後「川崎幸病院です。」との返事。
早速川崎幸病院に電話する。
「胸部外科の山本晋先生はお宅の病院にいらっしゃいますか。」
「はい。山本晋先生ですね。いますよ。」との返事。
『ああ。捜しあてた』と、胸をなでおろしました。
早速『川崎幸病院』のホームページを開きます。
ホームページの『私どもの特色』の中で「高齢者又臓器合併症を合わせ持つ重症症例を積極的に扱い、良好な成績を上げている。」『治療目的と治療対象』の中で「年齢に関しては、手術を制限する因子とは考えず、日常生活に問題ない方に対しては家族・本人の希望により、年齢の如何にかかわらず手術を行なっています。」との文面に『この病院でなら手術をやってもらえる』という確信がもてました。

川崎幸病院の外来では予約を心よく受けていただきました。
川崎に行くには高速バスと電車を乗り継いで5時間。
年寄りには一晩泊まりになる大変な長旅です。
それでも本人は気にもとめません。
高速バスの中で昼食をとりましたが、その病院で手術を受託してくれるとの期待から、どこかへピクニックでも行くような揚々な気分でした。
その翌日、診察の前に一通りの検査をしました。
その後、インターネットで見た山本晋先生に診察を受けることができました。
『大動脈外科』と書かれたドアを開けました。
私共3人は緊張した面持ちで、差し出された椅子に座りました。
先生には長旅のねぎらいの言葉を掛けてもらい、又同郷の看護婦さんまで同席していただきました。
お気持ちが大変嬉しかったです。
先生からは当病院に来るまでの経緯を聞かれました。
私と母で、胸部大動脈瘤が破裂して何ら治療できず死に到るまで、又これからいつ破裂するかわからない状態で死を待つことは、本人は精神的にまともにいられない、又家族も、とても見ていられない、本人は前に『腹部動脈瘤で破裂し、同じ部位の待機手術迄経験したが故に、是非手術をお願いした事』を話しました。
先生は、患者本人の『弓部の瘤』の状態を詳しく話され、ステント治療と手術の違い、動脈瘤手術の目的、年齢制限等を話されました。
そして手術に対して「たとえば、箱職人が毎日同じ箱を作ること。それと同じことをやっているだけのこと。」と言われました。
もちろん手術を快諾いただきました。
手術日は5月連休明けに決まりました。
執刀方法は手術前に決め説明していただくとのことでした。
手術前の心臓カテーテル検査は、郷里でやってもらえるよう紹介状を書いていただきました。
手術前の本人のいろんな負担を病院側が考えての配慮に感謝しました。

川崎から帰って、来るべき手術に向かって先生から説明を受けた『大動脈手術・心臓外科手術に関するご案内』を夫婦で何回も読み合わせをしていました。
又父は診断で肺機能の低下を指摘され、機能回復に効果的な『トリフローⅡ』を毎日時間があればやっていました。
それは大変熱心でした。
私も『手術に関するご案内』やトリフローⅡの説明書から肺機能の効果を高めることが手術後にいかに重要でそのことが重くのしかっかてくるか、又早期回復につながるかということを何度も言い聞かせました。
地方の市立病院で手術前の心臓カテーテル検査をした時、母から聞いた話ですが、その検査をした循環器の先生から、手術には問題はないと言われました。
でもこうも先生は母に言ったそうです。
「もし自分の親だったら手術は考えたかもしれない。手術をする以上頑張りなさい。」と、その言葉を聞いて、この手術の酷しさを更に新たにしました。

父は毎日手術の日が待ち遠しくて仕方がないようです。
後2ヶ月待たなければならないわけです。
「早く手術してもらいたい。」「何とかならないのか。」と、破裂するかもしれない恐怖の毎日、本人にとっては当然の気持ちです。
毎日接している母にはそのことが身にしみてわかっているわけです。
山本先生が「待機手術の患者で、今まで破裂した方は、ほとんどいない。」と言ってくれました。
破裂したことがある患者にとっては、どこまで納得出来たか疑問ですが、私共は胸部大動脈瘤・胸腹部大動脈瘤、それより難しい急性大動脈解離手術をやってきた先生だから、そんな気にはしませんでしたが。
待たされたと言えば手術予定日が『手術室』の改装で延期され、手術当日延期され、本人はかなり気落ちしました。
でも皆様の支えでここまで来れたと思ったとき、父の前に1人助かる人がいると思うと何か気持ちが落ち着きます。
父もすぐに気持ちを入れ替えたみたいでした。

入院後、山本先生が病室に来られました。
私は先生に手術方法を質問しました。
この手術法の場合、弓部大動脈人工血管置換に際し心臓を一時停止させ、人工心肺を取り付ける。
体温を18度に下げ脳に行く3本の血管に血液を流さなくてもいい状態で60分以内に吻合を終える。
父の場合は高齢だからと心配しましたが、一瞬とまどいながら『動脈瘤の部位が100パーセント取れる。もう瘤の心配がなくなる。ありがたい。うれしい。』という判断が頭をよぎり「ハイ、お願いします。」と返事をしたことを覚えています。

3階の南病棟の自分のベッドで手術前の準備をし、最後に肺塞栓症を避けるために医療用のガーターストッキングをはきました。
午前11時、先生の都合で2時間遅れて患者本人が手術室に入ります。
本人は白のストッキングをはいて微笑みながら、しかも歩い手術室に向かいました。
『ちょっと普通の病院と違うな。』と思いつつ、ふと先生の言った言葉「退院する時は入院してきた時と同じように自分の足で歩いて帰れるように。」を思い起こしました。
父が、にこにこしながら手術室の中へ入って行きました。
「行ってくるよ。」と手を振って。
「頑張るように。」と家族4人が言い返しました。
そして、冒頭にも述べたように、今、父は元気に生活しています。

手術を受けた患者さんの体験談07

手術体験

77歳男性・静岡県 2004年寄稿

2003年:動脈解離手術
2004年:胸部大動脈瘤手術
私は静岡県に住む77歳の男性です。
1年の間に2回大動脈の手術を受けました。
1回目は大動脈解離です。
平成15年の3月、ある総会がありまして、活動報告などして居ましたら胸が急に少し苦しくなってきましたので他の人にかわり、家に帰り休んでいましたがよくなりませんので、隣の町の総合病院に電話したところ救急で来るように言われ、救急でいきました。
検査の結果、急を要する最悪の病状(解離性動脈瘤)との事で、山本先生のおられる病院に救急車で送られ、手術を受けました。
救急車は1時間以上かかりましたが、途中苦しくてどうなる事かと心配でした。
病院に着いてからは何も覚えて居ませんが、気がついた時には集中治療室でした。
集中治療室に数日、個室に10日間、一般病室に1週間、術後の経過も良く、傷の苦痛などもなく23日間の入院で退院しました。
退院後も少し休んで居ましたが、7月頃より仲間と一緒に活動を再開しました。
退院後は山本先生に受診し、薬は地元の病院から出してもらい、1ヶ月ごとに診察を受けていました。
私の手術をしてくれました山本先生は、心臓外科手術、大動脈手術に関しては、大変腕のよい先生で、遠方より多くの患者が来るとのことを紹介して下さった先生より、手術の後になって聞かされました。

2回目の手術は胸部大動脈瘤で平成16年の2月に受けました。
この手術は急いでやる事はないが、いつかやらなければならない時が来るとの先生の説明があり、前の手術より時間はかからない、4時間程度で終わるとの事でしたので、自分としても年が多くなってからうけるのは心配ですので、先生にお願いしました。
手術は術後の経過もよく、2週間で退院しました。
今回の手術で声が思うように出なくなり、内緒話をするくらいしかでませんが、徐々に回復してくる場合が多いそうですので安心しています。
定期検診、薬、診察は1回目と同じようにしています。

手術を受けた患者さんの体験談06

手術体験

80歳男性・千葉県 2004年寄稿

2003年:弓部大動脈瘤手術

数年前より抱えていた大動脈瘤。
瘤が大きくなったら切除の予定で定期健診を受けていました。
平成15年の検査で、その時初めて担当となった医師から「あなたの大動脈瘤は手術を行う必要があります。」との言葉。
信じられない思いで聞きました。
私の瘤の大きさならまだまだ手術には間があると、いや一生手術などしないで済むかもしれない、安易な気持ちでいたからです。
緊張が走りました。

この担当医が川崎幸病院の山本晋先生です。
先生はこの当時、私の住む千葉県内の病院に出向いておられたのです。
私が手術の決意を固めるのには、それ程時間はかかりませんでした。
山本先生に全幅の信頼を寄せたからです。
何より瘤の危険性を見ぬいていただいたこと、懇切丁寧なインフォームド・コンセント、私や家族の疑問に時間を惜しまず答えてくれたことが大きかったです。
また先生の経歴や大動脈瘤手術に対する気概を知るにつけ、ますます“この先生なら”という思いがあふれてきました。
禁煙期間を置いて、平成15年7月、手術を受けました。
長年の喫煙で血管や肺はボロボロになっており、だいぶ先生の手をわずらわせたようです。
既に破裂痕もあり、きわめてきびしい状態であったことをあとで聞かされました。
正直、想像以上に苦しい闘病でした。

しかし、瘤の破裂を懸念する生活から開放された喜びは、筆舌尽くしがたく、私の胸の中で人工血管は力強く血管を送り続けてくれています。
黒ずんでいた肌も今はピンク色に透きとおり若返ったようだと家族に言われます。
手術から1年余り、よみがえった生命をいとおしみながら静かな秋を過ごしています。

手術を受けた患者さんの体験談05

胸部大動脈手術を受けて

59歳女性・千葉県 2004年寄稿

2004年:上行大動脈瘤手術

私は千葉県に住む59才の主婦です。
自転車で走行中に転倒し頭部と胸部を打撲したことがことの始まりでした。
その後他病院で検査を受けることになりました。
今まで大きな病気もせず、病院嫌いの私にとってそれは驚きに検査結果でした。
その病院の心臓内科医より大動脈に6㎝超の瘤があるとの事、また破裂の危険性もあるとの診断でした。
目の前が真っ暗やみになり、途方にくれてしまいました。

その時、その先生より川崎幸病院の山本先生を紹介して頂いたのが、手術に至った始まりでした。
山本先生より病状について、又手術を行った場合、行わない場合等について、私と家族に説明があり、十分な話し合いの時間を設けて頂きました。
私自身、動脈瘤が破裂する危険性を持ちながら、この先生活することは大変不安でした。
又家族も同じ様に不安な日々を送らねばなりません。
手術をせずに経過を見る方法もあるのですが、その方がむしろ危険な賭けのようなものだと思い、私と家族は手術が最良の道だと決断するに至りました。

この間、短い時間ではありましたが先生と私と家族の信頼関係は日々深まっていきました。
決断に至った理由は、山本先生は動脈瘤の専門家であり、その実績は各方面より大きな評価を得られている事。
また川崎幸病院には全国に先がけて「大動脈センター」を開設された病院である事が大きな要因です。

6月8日に入院し11日手術、翌日には集中治療室から一般病室に移るという順調さでした。
3週間で退院し、今は順調に回復しています。
何より精神的に不安もなくなり楽しい毎日が送れる事が、本当に手術を受けて良かった事だと思っています。
先生と患者と家族の信頼関係が、手術を成功させた大切な要因だと思います。

3ヵ月が経ちますが、毎日1時間、散歩をしたり、買物をしたりリハビリをしています。
この病気を告知されている方は、不安な毎日だと察しますが、先生そして御家族と十分に話し合い、良い信頼関係を築かれ、手術・治療される事が、生命の危機にさらされる動脈瘤という病状を廻避する最良の方策だと考えます。
時機を逸したあとでは、どんな後悔も知恵も及ばないのですから。
私は今その事を一番実感しております。

手術を受けた患者さんの体験談04

信頼と感謝

患者家族・千葉県 2004年寄稿

2004年:上行大動脈瘤手術

私の家内が手術を受けました。
自転車で転倒した折りに脳と胸部の精密検査を実施しました。
その結果、心臓内科医より6cmを超える動脈瘤を告知され、始めてこの病気の事を知る事になりました。
他病院ではありましたが、その内科医が川崎幸病院の山本先生を推挙され紹介を頂いた事が、この病院と山本先生との関り合いの始まりでした。

58才まで大病もなく病院嫌いの家内は相当なショックを受けていました。
それからは先生と患者、そして家族との話し合いを納得いくまで重ねました。
とても重要な意義のある事でした。
そして手術を受ける決断に至りました。
大動脈センターを日本で唯一開設した病院である事。
センター長の山本先生は動脈瘤の専門家であり、年間百数十人に及ぶ動脈瘤手術の実績をあげておられる事が決断に至る大きな理由でした。

手術は成功しました。術前検査も含め約2週間の入院でした。
日に日に回復に向かっている様子に本人も私も驚くばかりでした。
この手術を経験し、医師と患者そして家族との信頼関係が手術を成功させる最も重要な事だと認識しました。
又病院の職員、看護の方々の行き届いた対応とサービスにも大満足でした。
この経験を私の知人、友人に話す毎に、この病気に関心を高めている様です。
検査をしなければ、症状のない大動脈瘤である事を、家内は破裂するまで、判らなかったでしょう。
がん検査と同じ様に大動脈検査を皆様も受けられたらと思います。

今は生きている事に感謝です。
ちなみに私は今春定年退職し、家内と2人で千葉県に暮らしております。
結婚し東京にいる長男より、来春孫が生まれる知らせを受け、家内共々喜んでおります。
川崎幸病院と大動脈センターの発展をお祈り申し上げます。

手術を受けた患者さんの体験談03

川崎幸病院における大動脈解離手術に関する経緯について

患者家族・神奈川県 2004年寄稿

2004年:大動脈解離・胸部大動脈瘤破裂

平成15年12月初め、妻は原因不明の腹痛により市民病院に救急入院したが、その後微熱が続くも相変らず原因不明のまま大よそ2ヶ月経過し、1月下旬、初めて胸・腹部CT検査が実施された。
その結果、大動脈が解離し、通常の数倍に膨張し、いつ破裂をしてもおかしくない状態にあり、緊急手術の必要性が示唆された。

しかし、主治医から、市民病院ではこれに対応スタッフおよびパワーがないため手術不可能であり、心臓血管外科部長からも過去の心臓手術のために、大動脈と胸骨の癒着も見られ、これに対する手術は当院では出来ないとの話があった。
市民病院より、A大学・心臓血管センターを紹介され、早速訪問した。A大学助教授は、私の持参したCT写真を見て、市民病院外科部長と同様の見解から手術は施行困難であるとの見解を示した。
そこで私は、かつて妻は心臓人工弁置換手術をB大学病院においてB教授の執刀で行った経緯があることを話したところ、そちらと相談されるのがベターではないかということとなった。
私はA大学をあきらめ、B大学病院B教授を訪ねた。
相談の結果、かなり危険な手術ではあるけれど、イチかバチかならやってみても良いとの答えだった。
その対応のあまりの乱暴さに、実際のところ戸惑いを隠せなかった。

このとき、実は同時進行で市民病院の主治医に心臓手術に優秀なドクターは居ないか、何気なく尋ねたことがあり、その際、かなり名の知れたC病院というところのC先生という心臓外科医が居られる、ただし、「かれは心臓バイパス手術の専門だからなあ」と言われたが、この際、わらにでもすがる思いで早速アポイントをとり訪ねた。
C先生は「大動脈手術に関しては日本でも有数の川崎幸病院の山本と言う医師がいます。
彼ならきっと引き受けて、そして、成功させるでしょう」と、早速その場で連絡の電話を入れアポイントを取って下さった。

そこで、直ちに川崎に飛び山本先生に面会、CT写真に基づき判断を仰いだ。
山本先生は、“確かに困難な手術ではあるが、リスクがあるからといって回避できる手術ではない”と言い、直ちに手術を引き受けて下さった。
私たち家族の不安に対しては、「私は、手術が初めから成功しないと考えたら、そのような手術は引き受けません。」とおっしゃられたので、大変心強く思い、手術をお願いすることを決意した。
B大学病院に対してはお詫びの上キャンセルさせていただいた。

ところで、妻の特殊性というかハンディキャップとして、
1) 23年間にわたる人工透析患者である。
2) 3度に及ぶ心臓手術の経験者であり、人工弁が挿入されている。
3) 数回の脳梗塞の既往がある。
つまり、どこの大学病院でも手術を躊躇する、いわゆるハイリスク患者である。
このような状態を踏まえて、体力的にもかなり危険な手術であったにもかかわらず手術は直ちに施術された。
手術時間は約6時間であった。(B大学病院では12時間要すると言われていた。)
術後、およそ1ヶ月のリハビリ後、湘南東部総合病院心臓病センターへ転院、以後人工透析と身体的リハビリテーションを行った後退院し、現在に至ったのである。

おわりに。

今回の大動脈手術にあたっては、いろいろと幸運が重なったが、大学病院には無い、それぞれの専門分野に対する医師同士の個人的ネットワークが存在することを体験し、決してあきらめてはいけない、徹底した調査の必要も体得した。
さらに言えば、市民病院に緊急入院した時点、あるいは診察後2ヶ月間原因不明のまま放置せずに(微熱、発熱に対して氷まくらだけの処置であった。)
CTあるいはMRI等検査を受けていれば2ヶ月後ではなく早い時期に原因が判明したのではないか、とも考えた。
この辺りに大病院の限界があるのだろうか。

川崎幸病院の山本医師には術前、術後のケアーを徹底して受け精神的にも安心感を抱かせて頂いた。
先日、妻は術後1年の検診を受診したが問題点は見つからず、今も元気に生活している。

手術を受けた患者さんの体験談02

大動脈瘤手術を経て-家族の立場から-

患者家族・東京都 2004年寄稿

2000年:解離性大動脈瘤の診断
2001年:上行大動脈瘤手術
2003年:胸腹部大動脈瘤手術
解離性大動脈瘤の宣告

母は昭和3年生まれ、現在76歳になります。

かねてから、高血圧が持病であった母は、それまで何十年間も、近くの内科医院に通い、血圧を測定し、薬を処方してもらうだけ、それでもなんの不安もありませんでした。
今までの人生、これといった大病をせずにすごしてきたことが、自分は健康だという、なんの根拠もない自信となっていたのでしょう。

ところが2001年8月、区の老人検診で胸部レントゲンを受けた際、心臓肥大と胸部に異変があることを指摘されました。
前述の先生は「一度専門の病院で診察を受けたほうがよい」と、自宅からあまり遠くない大学病院を紹介して下さいました。
その日のことは今でも鮮明に覚えています。
母は、普段は気丈なタイプの人間でしたが、そのときに限って私に病院に付き合ってくれ、と言ったからです。
大学病院のA先生は、初診の日に、解離性大動脈瘤と診断され、弓部は2.5cmから3cmだが、上行と下行と腹部大動脈はそれぞれ6cm以上であることを告げ、即日入院となりました。
その日から私たち家族と、そして勿論本人の不安な日々が始まりました。

第一回目手術

入院して、まず高すぎる血圧を正常値に戻さないと危険ですと言われ、トイレ以外は動かないように、薬だけ飲み、1日に何回も血圧を測る、それが1ヵ月あまり続き、その後退院となりました。
再度入院し、心臓カテーテル検査等を終え、その1ヵ月後に胸部(上行)大動脈人工血管置換術を受けました。
下行大動脈から腹部大動脈も十分膨らんでいましたが、下行・上行両大動脈を同時に置換するのは無理だ、ということでした。
この手術のときも、担当のA先生からは手術に伴うリスクとして脳梗塞、下半身麻痺の危険があること、また成功しても他の障害(多臓器不全、不整脈等)を負う可能性があると、などの説明を受けました。
母は初めての大手術、不安にならないはずはありません。
元来が楽天的な性格ですが、覚悟を決めたようでした。

手術は限度といわれた8時間くらいかかり、術後すぐに集中治療室で母に会いました。
ベッドの上で呼吸器をつけ、たくさんのチューブがつながれている母は、白い顔をして眠っていました。
私には母の周りの機械が動いていることで、やっと母が生きているのだ、と理解できたものの、その顔は死に顔にみえました。
術後、ICUから一般病室に戻ると二週間ほどは激しい痛みを訴え、発熱を繰り返し、一時は不整脈も見られましたが、1ヵ月ほどでようやく退院することができました。
退院してからは1ヵ月に一度、薬をもらいに大学病院に通院していました。
その頃、周りの人に“手術が成功してよかったね。”、と言われると母は必ず「でもまだ残っているのよ」と憂鬱そうに答えていました。
下行から腹部も破裂する大きさだったのですが、何となく母を見ていると、このまま破裂せずに生きていける気がしました。
術後あんなに辛そうで、痛がり、苦しがっていた母の姿は、もう二度と見たくありませんでした。母もできればこのままの生活が続けば、と願っていました。
その後、担当していただいたA先生が突然転勤され、母はB先生に診察をしていただくことになりました。
B先生は上行大動脈の手術時、執刀してくださった先生でした。
外来で私たちが「下行大動脈から腹部大動脈は平気でしょうか?」と尋ねると、必ず「もうすこし様子を見ましょう」とおっしゃっていました。
何ヶ月か通院していましたが、B先生のほうからは下行大動脈のことには触れず、ただ血圧を測るだけの外来でした。
“これでは近所の医院に通っていたときと同じ、また手遅れの一歩手前の状態になってしまう”、という不安がだんだん大きくなり、私たちは診察のたびに“大丈夫でしょうか?”、と尋ねるようになりました。
2003年4月、いつものように質問すると、B先生は何気なく一言、「大きくはなっているけど、手術はなるべくしたくないんです。」と、本当に何気なく、独り言のようにつぶやきました。
したくないとは、どういうことだろう…。

“したくないって?”。私たちもしたくないし、させたくありません。
これは家族であれば当然です。
しかし、上行大動脈瘤の時は、手術をしなくて済むものではないと、あれほど説明を受けたのです。
大動脈瘤は、とても危険で、兆候がなく、ある日突然破裂し人生が終わってしまうものだと、聞かされていました。
母はかねてより、手術は確かに怖いが、破裂して苦しみながら死ぬよりは、手術をして生きていたい、と考えていました。
母は、思いつめたように“手術に自信がないという医者に命を預けられない”、と言いました。
母は先生に対して非常に素直です。
先生の言うことは必ず守ってきました。
その母が先生に対して躊躇し、嫌だといったのです。

執刀医探し

それから、私たちの先生探しが始まりました。
でも、どうすればいいのでしょうか。
医療ミスも、昔は密室の出来事であったのものが明らかにされ、善くも悪しくも情報は無限にあります。しかし、実際、手術ができる医者探しは至難でした。
まず、患者には医師の持つ手術技術の良し悪しはわからないこと、最近は手術風景をビデオに撮ってくれる病院もあるそうですが、それを見ても私たち素人にはわかりません。
ましてや母と同じ病気の人を捜して体験を聞いたり、先生について聞くことは不可能でした。

「どこそこの○○病院が心臓外科では有名だ」と教えてくれる人もいましたが、私達には役に立ちませんでした。
なぜなら、私たちは心臓手術では有名なこの大学病院に見切りをつけたのですから。
手術をするのは病院ではなく医者本人です。
探していたのは「医者」であり、病院ではありませんでした。
私たちはインターネットと書籍で名医と言われる先生を探すことにしました。
その過程で、大動脈瘤の手術は大掛かりな手術で、ましてや下行から腹部は様々な臓器と連結している部分でもあり、この部分の手術ができる先生は、ほとんどいないことを知りました。
大学病院の教授が「やりたくない」と言ったのは、正直な気持ちだったのでしょう。
そして何日かかけて、とうとう山本先生のホームページにたどり着きました。

それは山本先生が手術件数を公開しており、その豊富な手術経験を知ったことが大きかったと思います。
海外で学んだことにも好感を持ちましたが、この時点でも山本先生にお願いするかどうかは決めていませんでした。
山本先生の病院に連絡をして、診察予約を取りました。
心臓外科の秘書の方が対応してくださいましたが、いきなり電話をして、「年間どのくらいの手術をしているか」、「山本先生でお願いしたい」といった、わがままで失礼な希望を告げる私に、とても親切に手続きをしてくださいました。
いきなりアポイントを取り、有名な先生が果たして診てくださるのか、という不安はたちどころに消えました。
私たちは、まず外来で会ってみてから決めよう、と思っていました。
医者がぞんざいな態度であるとか、説明不足で患者に不安をあたえる、という話もよく聞きます。
母の命を預ける先生だからこそ、真剣に選ばなくてはいけないと考えていました。
今まで通院していた病院に対しては、セカンドオピニオンを受けたいので資料が欲しい旨、伝えました。
母は病院を変えることに関し、大勢の人と同じように、今まで診てくださった先生に悪い、と思っていたようですが、私は今の先生に任せる気はなく、母を説得し納得してもらいました。

初めての診察の日、紹介状を読んだ山本先生は「セカンドオピニオンでいらっしゃったのですか?」と聞かれましたが、私達はそれを否定し、それまでの経緯と気持ちをお話しました。
外来での先生は、とても明確に動脈瘤の病状を説明し、迅速に午前中に必要な検査を指示し、午後、ゆっくりと話し合う時間を作ってくださいました。
私達を前にして、この手術は簡単ではありません、とおっしゃり、ポツンと一言、「でも、自信はあります」と、私たちが最も望んでいた一言をおっしゃいました。
「自信がない手術は引き受けません」、とも。

帰宅途中、私たちの気持ちは、すでに決まっていました。
母は「あの先生がいい!」と笑いながら言いました。
勿論、先生の「自信がある」の一言だけで決めた訳ではないのですが、それは私たちにとっては大きな出来事でした。
山本先生も、手術の後遺症やどうしても助けられない場合があることを、説明されました。
母に「怖い?」と聞くと「今回は怖くない」「あの先生にやってもらってダメならダメでしょう」と強がっていましたが、私は山本先生にお任せしよう、と思いました。
面談中、大動脈瘤の手術をまともにできる医者が少ない現状を嘆き、後任を育てなくてはいけないと語ってくださった真摯な情熱に、この先生にすべてを任せよう、と思えたのです。

私たちが手術を受けるにあたり、心から信頼のおける医師に出会えたことは大きな幸運でした。

第二回目手術

手術当日、兄弟三人で母を手術室へ見送り、私たちは時間が経つのを待っていました。
前回よりはるかに大きい範囲の手術でしたが、時間は前回よりも二時間ほど早く終わり、私と兄は執刀を終えたばかりの山本先生に呼ばれ、開口一番「もうすこしで破裂しそうなくらい、大きくなっていましたよ。」と言われ、危険をまざまざと痛感させられました。
術後の経過も前回より良く、母は一般病棟に戻ってからも、あまり痛みを訴えませんでした。
実際、早く回復しようと歩行練習にも積極的に取り組み、病室に戻ると妹に電話をかけて報告したり、一回目とは明らかに違っていました。
山本先生は、口では「手術が無事終われば、外科医の役目は終わりですから、病室には行きません」と軽口めいておっしゃりながら、事あるごとに顔を出してくださいました。
日増しに退院に向けて快復している母を見て、嬉しそうな顔をしてくださり、その笑顔を見て、私たちもほっとしたものでした。

退院後は全てが良好です。あれから一年あまりたった現在でも、山本先生には外来のたびに他の病気に気をつけて、とお心遣いをいただいています。
身体の傷跡は背中からおへその下まであり、風邪で内科に行っても、腰痛で整形に行ってもびっくりされます。こういう手術をした、とお話をすると一様に感心されます。
その度に、どれだけ高度な技術と多くの経験がなければできない手術だったのかと思い知らされ、私たちの選択が間違いではなかったことを実感しています。

終わりに

長々と私事を書き連ねましたのは、少しでも、これから大動脈瘤の手術を受ける方々への励ましになれば、との思いからです。
実際、私たちは山本先生にたどりつけて幸運でした。
手術の前に、外科医は「自信がある」とは言わないでしょうし、言えないだろうとも思います。
もし手術がうまく行かなければ、責任を追及されるでしょうし、訴えられるかもしれません。
しかし、それを敢えて言える人がどれほどいるでしょう。
その言葉は、確かな技術と経験による裏付けなければ言えない言葉だと思います。

世の中には大動脈瘤になっていても、医師の情報を得るすべを持たないお年寄りや、症状が出ないため手遅れになってしまう人も、まだまだたくさんいるはずです。
そんな多くの患者さんたちが、自信を持って手術に取り組んでいるこの先生に、一日も早くたどりつけますよう、願っています。

手術を受けた患者さんの体験談01

2回の大動脈瘤手術を乗り越えて思うこと

32歳男性・埼玉県 2004年寄稿

1997年:解離性大動脈瘤の診断
2003年:下行大動脈置換手術
2003年:大動脈解離再発
2004年:大動脈弓部全置換手術
2004年6月某日。
自宅近くの大学病院で1回目の手術(2003年6月)を受けてからちょうど一年目。
川崎幸病院・大動脈センターでの2回目の手術の後、山本先生から、“動脈瘤については、もう心配する必要なし。”という言葉を聞きました。
「運動OK。重いものをもっても大丈夫! 血圧を気にする必要もありません!」と。

ここまで、本当に長かったです。本当に…。

初めての解離性大動脈瘤

今から7年前の1997年。大学の健康診断でレントゲンを撮ったときに、大動脈の解離が見つかりました。
場所は弓部と下行大動脈にかけて、内膜がばっさりと解離です。24歳の時でした。

当時、大阪府高槻市にいた私は、吹田市にある国立循環器センターを紹介されました。
病名は、解離性大動脈瘤と言われました。

私は、すぐに手術をすると思ったのですが、診断の結果は、動脈の直径が40mmなので、手術は行わないという事でした。
国立循環器センターの先生は、6ヵ月毎のCT検査で状況を見れば充分と言うので、本当に大丈夫なのかなという不安もありましたが、突然の事で頭が混乱していたこともあり、先生に説明を受けても「はぁ~」と、あいまいな返事ばかりしていたように思います。

また、この時の先生の話はあまり覚えていません。
先生に対しての不信感というか、壁というものをとても感じました。
なんか、自分が一人の人間として診察してもらっているのではなく、大勢来る患者の一人という感じを受けました。
先生の診察が毎回同じ事を言うありきたりの会話だった事。
診察時間も5分程度の短時間だった事。
特に気をつけることとか、薬を飲むという事もありませんでしたし、指導もありませんでした。
長すぎる待ち時間。すぐ終わる診察。駐車場は、常に満車。受付は機械。
私は1年半くらいで病院に行くのを勝手に辞めてしまいました。

もともと病院が嫌いだった私は通う時間がもったいないのと自覚症状がなかったのもあり、病気の事は忘れたふりをしていました。
色々な理由をつけて、逃げてしまう人間の典型かもしれません。

そして再発

2001年3月 28歳の時に、故郷の埼玉に戻ってきました。
2ヶ月間ほどは、順調に生活をしていました。仕事は、飲食業でした。
6月に新しいお店を立ち上げる事になり、急に仕事が忙しくなってしまいました。
帰宅はほとんど出来ず、風呂はお店の台所で、寝るのは、お店の椅子を並べて、食事はファーストフードやコンビニ弁当などがほとんどでした。
そんな感じで、オープンは無事に迎えることが出来ました。
しかし、オープンから3日目。仕事が終わり一息ついていた時に、意識が飛んでしまいました。
原因は、重課労働と睡眠不足のダブルパンチでした。救急車で近くの病院に運ばれ、色々と検査を受けました。
その時のレントゲンで大動脈に異変があると言われました(当然ですけど…)。
忘れていた過去が目覚めた瞬間でした。
どこか、希望の病院はあるかと聞かれたので、家の近くにある大学病院を希望しました。
この病院は、心臓の手術に関してはとても有名だということを以前から聞いていたので(本当はこんなこと、当てにならないということが後から解かりました)、もう一度じっくり見てもらうことになりました。

不安と恐怖に満ちた手術説明

CT検査だけかと思ったら、カテーテル検査というものを始めて受けました。初めての事だったので、とても怖かったです。
予想通り、大動脈解離は着実に進行しており、大きさは55mmまで膨らんでいました(馬鹿ですね…)。

「ヤバイ!」 と正直思いました。
大学病院の担当の先生に、手術をした方が良いと言われたのですが、新しい会社に入ったばかりということと、なにより手術をする事にとても恐怖を覚えたため、もう少し待ってほしいとお願いをしました。
先生は、少し困った顔をしていましたが、私にはどうしても手術を受ける気持ちになれませんでした。
とにかく、もうこれ以上膨らまないように、規則正しい生活をして、煙草も辞めて、酒も控えて、とにかく現状維持に努めようと心がけました。
もしかしたら、奇跡が起きて治ってしまい、手術をする必要がなくなるかもしれない!幸い、会社が病気に対してとても理解を示してくれたこともあり、自宅でSOHOという形で、仕事を続けさせてくれました。
しかし、これだけの好条件に恵まれながら、6ヶ月ごとに少しずつ動脈瘤は広がってしまい、とうとう60mmを超えてしまったのです。
とうとう、仕方なく2003年6月にこの大学病院で手術をする事になりました(奇跡は起きませんでした…)。

初めての手術は、私に不安と恐怖しか与えてくれませんでした。
その不安と恐怖の大部分を占めるのが手術前の説明でした。
これを言わないといけない決まりらしいのですが、とにかく失敗の確率ばかり言われました。
輸血による、感染症。手術による生存率は80%。手足に障害が残る確率が50%。
確かに、人間のすることですからリスクは承知していましたが、決まりとはいえ、その説明を淡々とクールに説明されました。
説明は多分、若い助手の先生だと思うのですが、とにかく事務的というか、マニュアル的というか、なんか心と心が通じなかったというか、もう少し、患者の立場を考えて説明をして欲しい!! と強く思いました。
実際に、「そんな言い方するんだったら、手術辞めます!」「このままで良いです!」と説明してくれた助手の先生に訴えてしまいました。
一度は手術を、お断りして退院してしまおうと思ったくらいです。
実際に、説明が日曜日、手術がその次の週の金曜日だったのですが、それまでの間、毎日怖くて眠れませんでした。 この時に、生まれて初めて睡眠剤というものを服用しました。

苦闘!
術後(下行大動脈置換手術)

手術はなんとか終わりました。
その時のことは、何も覚えていません。
朝の8時ごろに手術室に入り、22時過ぎに意識が戻った時には、集中治療室の中でした。
手術の所要時間は約10時間程度でした。
(山本先生は、どうしてこの手術に10時間もかかるのだろうと、首をかしげていましたが)手術後は、痛みと下痢との戦いが2週間続きました。

まず首から左肩にかけて、すごい痛みがありました。
原因は左胸から背中にかけてメスを入れて手術をしたため、右側を向き、左腕を頭の上まで上げた状態が長時間続いたためだそうです。
対処方法は、シップを張る事でしたが、この痛みは入院中(約3週間)無くなる事はありませんでした。声もあまりよく出ませんでした。
一応耳鼻科の先生に診てもらいました。耳鼻科の先生は「声帯の片方が動いていません」と診断した後、「半年から1年くらいは我慢してね」と軽く言われました。
その診断を聞いた担当医の先生は、「喉に人工呼吸の為の器具を入れるんだけど、それが声帯に当たって傷をつけてしまったみたいだ。まあよくあることだから」と説明してくれました。
(でも、本当はこの手術をする場合、大動脈の近くに声帯の神経があって、どうしても触ってしまう為、術後はしばらく声が出にくくなると、後で山本先生から説明してもらいました。後から考えると、そんなことも知らない先生に手術をされてたのか!と、思いました)

そして、下痢です。
集中治療室で下剤を飲まされ、浣腸をされました。一日中ずっと下痢の症状が続き、簡易トイレは私のお友達状態でした。この時の看護婦さんには本当に感謝でした。

私の大便もそれこそ一日中見ていたと思うのですが、とても親切に対応して頂いたので、とても心が和みました。昼間はやさしい看護婦さんが、常に目の前にいたので、不安はありませんでしたが、深夜になると目の前にいなくなります(ICUなのに…)。夜、お腹が痛くなり、簡易トイレを求めるのですが、声が本当に出ないために、看護婦さんが気付いてくれません(ICUはナースコールのボタンが無いみたい)。

更に! ICUは色々な電子音が鳴り響いていて、その音に私のかすれた小さな声がかき消されてしまいます(本当に声が出ませんでした)。
しかし、私もそこは成人男性なので、必死に我慢、我慢、我慢の子でした。

そして頭痛です。
この手術ではスパイナルドレナージという脊髄にチューブを入れます(山本先生は下行大動脈の手術ではこのチューブは不要と言ってました。
不要な治療でこの苦痛ですか?)。
それの影響で、手術後は、頭痛というか気持ち悪い状態が続きます。症状は人それぞれみたいです。
私の場合は、起き上がると気持ち悪くなるので、食事をする時は寝ながら食べました。この症状はちょうど、1週間続きました。

何とか退院

しかし、このような苦闘の後、私は何とか退院することができました。家に帰っても1週間くらいは体が思うように動きませんでした。
家の中の掃除が色々とできるようになったのが、2週間後。軽い運動が、7月下旬に出来るようになりました。
32歳という、若さもありますが、やはり家で、家族と共に過ごすというのが、とても自分にとって精神的な助けになりました。
また、この年(2003年)の夏はとても涼しくてすごしやすかったので、リハビリをするにはいい環境でした。 9月には、仕事も再開しました。
先生からも社会復帰して新たに頑張るようにと励ましていただき、やっとのこと、全てが順調に行くと思っていました。

再び再発

が、しかし、今度は上行大動脈が解離です。2003年10月でした。

「もうやだ。あんな思いはもうしたくない。」
「あんな思いをするくらいなら、手術を受けないでこのままの方がいい。」
かなり落ち込みました。
大学病院の先生に、「どうしてなのですか?手術ミスですか?」と聞いたのですが、先生は言葉を濁す感じで、納得のいく説明はしてくれませんでした。
結局、「手術は必要です。12月初めにしましょう」と先生にいわれたのですが、何故か納得できない自分がいました。
「このまま2回目の手術を受けることが果たして正しいのだろうか?」
「先生の言っていることをそのまま聞いていて良いのだろうか?」
心には、何か引っかかるものがありました。

大学病院から、川崎幸病院へ

1月初旬。
不安と疑問の中、大学病院での2回目の手術日程を決めました。
ほとんど、投げやりに。
1週間ほど経って、母の勤めている歯科医院の先生が、大動脈瘤に関して色々と調べてくださいました。
その結果、「川崎幸病院の山本先生がいいらしいよ。」と教えていただきました。
何かにすがりたい気持ちで、思い切って連絡をしてみると、紹介状もなしですぐに見ていただけるということになりました。
火曜日に電話をして、その週の土曜日に診察の予約が取れたので、タイミングが良かったです。
当日は、CT検査をした後、その画像を見ながら、山本先生の話を一時間以上、じっくりと真剣に聞きました。
病気の事、手術の必要性、何故、1年間に2回も手術をする事になってしまったのか。山本先生は、判り易く、とても丁寧に説明してくれました。
その説明は不思議と、とてもわかりやすくて、今まで自分がなんとなく聞いていた先生の説明とは全く違いました。
それは、手術を執刀する先生が、じかに話してくれているからかも知れません。そして、迷わず、その日のうちに山本先生に手術をお願いしよう決めました。
すぐに、大学病院での手術はキャンセルして、再度、川崎幸病院で手術の予約をしました。手術日は、3ヶ月先まで予約で一杯だったので、来年の2月まで待つことになりましたが、先生に手術をしてもらうまで待つことに対しては、何の不安もありませんでした。

運命の手術日
(弓部大動脈全置換手術)

2004年2月某日、手術日。
実は、この日は亡くなった父の誕生日だったのです。私は、何か運命的なものを感じながら、手術の朝を迎えました。
今回は、2回目の手術というのもあり、1回目の時に術後の過程を大体経験していたので、そんなに不安はありませんでした。

手術は、無事に終わり、私の予想通り、夜の8時ごろ集中治療室で目が覚めました(手術時間はわずか4時間55分だったそうです。)。
さあ、これから体中に痛みがはしり、下剤を飲まされて、1週間苦しむのか!よし、気合を入れて乗り切るぞ!と思っていました。
が!! その次の日には、集中治療室を出てしまい、その1日後には、もう歩いてトイレに行っていました。今回の手術後は、信じられないくらいとても楽でした。
山本先生が「ここでの手術後は楽だろう?」とよく言っていました。
私が「何故ですか?」と聞くと、「腕が違うからだよ(笑)」と笑いながら言っていました。
でも、実際に2回目の手術後はとても楽でした。
1回目の手術と比べても、今回の手術は、はるかに大きな手術だったのに、です。
切った場所が違うのと、今回は脊髄チューブも入れなかった事もありますが、とても肉体的には楽でした。
しかし、肉体的な辛さとは別に、精神的なしんどさがありました。
(ちなみに、この精神的な辛さというのは、本人の意識の問題で、結構ポジティブに物事を考える人はあまり、精神的に辛いというのはないのかなと思いました。
私の場合は、物事を考えすぎてしまう癖があるので、夜、微熱が出て、なかなか寝れない時などは、マイナス思考がどんどん働いてしまった事がありました。) 退院は、3月某日。
約2週間ちょっとで、楽々退院することが出来ました。

そして、今

暑い夏も終わり、退院後3ヶ月が経ちました。
新しい仕事にも就けて、いま、大好きなテニスを週に2度、やっています。
さすがに、以前のように軽快には動けませんが…。
でも、少しずつ、体力をつけて、元通りの体に戻そうと思っています。

いま、私が思うこと

私は、1回目と2回目で手術をしてもらった先生が違います。
色々な巡り合わせがあって、今このような下手な文章を書いていますが、「先生によって自分の一生が決まる!」としみじみ思いました。
同じ病気が、見る先生によって、捉え方も違いますし、アプローチの仕方も違いました。
先生の経験によって手術の内容が大きく変るというのを知りました。
先生によって、患者に対する接し方が全然違うのだというのも知りました。
病気になったら、一つ病院で診察を受けるのではなく、色々先生の意見を聞いて自分の選択の幅を広げる努力をする事が必要と思いました。
私は一年間に2度、大動脈瘤の手術を受けました。
もし2回目も同じ病院で手術をしていたら、果たして、今、私は生きているのだろうか?それとも今こうして何の不安もなく、社会復帰出来ていたのだろうか?
と思います。
私は同じ病気を、複数の先生に診てもらったことにより、より良い選択をする事が出来たと思っています。
私は、変なところで義理堅いと周りによく言われるのですが、ずっと診てもらっている先生に義理を感じて、他の先生に行く事にはすごく抵抗がありました。
しかし、周りの人たちからの色々な助言で、山本先生の所に行く事ができ、新しい道を開くことが出来ました。

▲PAGE TOP